さて、今回は、越前の国(えちぜんのくに)の
一の宮である気比神宮(けひじんぐう)と、
皆さんご存じの織田信長ゆかりの地にある、
織田劔神社(おだつるぎじんじゃ)のお話です。

気比神宮は、福井県敦賀市にあります。
まずは、この敦賀(つるが)という
地名の由来について。

出雲の国譲りがなされ、ヤマトによる統一国家が
できようとする頃(第十代 崇神天皇)に、
新羅の国の王子が、日本海を渡ってやってきました。
その王子の名前は、「ツヌガアラヒト」という名前で、
日本では「アメノヒボコ」と名乗っていました。

その王子が、海から上陸したときに、
その土地の人たちが、名前を聞くと、
「私はツヌガアラヒトである」と答えました。
彼は、頭に角がはえたような恰好をしていました。
バイキングのようなイメージです。
人々は、彼を「角がある人」と聞き間違えたようです。

そして、その「ツヌガアラヒト」の名前から、
その土地の名前を「ツヌガ」→「ツルガ(敦賀)」と
呼ぶようになったようです。

さて、気比神宮の御祭神は
「伊奢沙別命(いざさわけのみこと)」。
別名を、御食津大神(みけつおおかみ)とも称し
食物を司り、また古くより海上交通、農漁業始め
衣食住の生活全般を護り給う神として
崇められているとのこと。
入口には、日本三大鳥居である大鳥居があり、
厳かな雰囲気があります。

気比神宮の拝殿にて参拝後は、
師匠表先生のご神行ならでは、摂社・末社巡りです。
今回は、「角鹿神社(つぬがじんじゃ)」へ。

このツヌガアラヒトの子孫から天皇家ゆかりの
人物が登場します。
「神功皇后」です。
神功皇后と言えば、古事記では天皇家で初の
女性天皇と記載されていました。
そして、三韓征伐という大事業を成し遂げた
ことで有名です。
彼女は、第十四代 仲哀天皇の妃であり、
アメノヒボコの子孫でもあります。
そして、その神功皇后の息子が、
第十五代 応神天皇となるのです。

さて、気比神宮の次は、福井県丹生郡越前町にある
織田劔神社へ。

剣神社は日本最古級の神仏習舎


この神社は、越前の国の二ノ宮です。
織田劔神社の 御祭神 は、「素戔嗚尊」です。
そして、戦国武将「織田信長」ゆかりの神社
でもあります。

そもそも、織田信長は「尾張の国」の大名です。
どんな経緯があったのでしょうか?
室町時代、越前の国を治めていた守護大名は
「斯波氏」でした。
信長のご先祖様は、越前織田荘の荘官として、
また越前国二の宮劔神社の神官として
大神に仕えてきた由緒ある家柄でした。
この「斯波氏」は、織田氏を家臣とし、
別に治めていた尾張の国へ派遣されたようです。
そして、徐々に力をつけていき、信長のころには、
尾張の国を治める大名となったのです。

織田信長と言えば、「桶狭間の戦い」。
この戦は、駿河・遠江・三河の大名である
「今川義元」との合戦ですね。
信長は、今川勢に奇襲をかけて勝利します。
その奇襲の途中に、「熱田神宮」に
参拝します。
この戦は、熱田神宮に祀られている
「草薙の剣」を今川から守るための
戦だったという話があります。
何故かというと、織田劔神社の御祭神である
「素戔嗚尊」が、ヤマタノオロチ退治で、
オロチの尾っぽから出てきた劔(つるぎ)。
それは、「天叢雲劔(あめのむらくものつるぎ)」
でした。後に「草薙の剣」と呼ばれます。
元々、劔神社の神官であった織田氏は、
尾張の国へ行く一つの理由として、
「 天叢雲劔 」を守るという役目があったのでは
ないでしょうか。

続きは、次回ということで。